昨日と今日、そして明日の私

NEOによる書き下ろし小説

01 <2014.8.26掲載>

今日子は定時に仕事を終えると、
「お先に失礼します」
と小さな声で言い、足早に会社を立ち去った。
ビルのガラスに映った自分を眺めながらゆっくりと歩く。
(少し太ったかなぁ、、、美容院にも長いこと行ってない)
髪をかき分け深くため息をつく。
足取りは重く、日中の仕事でのトラブルが繰り返し思い出される。
「はぁ~」
(あれは本当に私のミスだったんだろうか‥‥‥?)
地下鉄への階段を下りながら、今日子は上司とのやりとりを思い返していた。
(あ~あ、もうこんな会社辞めたい!でも32歳の私に他に何ができるというの?)
昨日と同じ思考回路に浸かりながら、今日子はホームに立った。
髪をかき分けると、さっきまで付いていたピアスが片耳ない。
高かったがデザインが洒落ており、今日子のお気に入りだった。
(あ~、なんてツイテないんだろう。でも探しに行く気力もない‥‥)
片耳のピアスを取り、カバンにしまうと、今日子は再びため息をつき、ぼんやりと正面のポスターを眺めた。
《たった3年で人生は変わる。》
(どこかの携帯のCMでやっていたっけ。たった3年で人生が変わるわけなんかないじゃない。。。私は3年前も今も相変わらず同じ。)
ホームに走り込んで来た電車に視界は遮られ、今日子は頭の中からそのフレーズを追い払った。
会社から地下鉄で40分の道のり。もっと近い通勤路もあるけれど、ゆっくり頭を整理するには今日子にとって、その時間は必要だった。
電車に乗ると空いた座席を見つけ座り、一息ついた。
気晴らしに本でも読もうと思ったが、不意に睡魔に襲われた今日子は電車の揺れに身を任せると、瞬く間に眠りに落ちた。
ガタンガタン、運転手のクセだろうか?停車するとき、微妙なブレーキのかけかたをする。
何となく目を開くと、隣には髪がボサボサの女性が、今日子の肩に寄っ掛かって眠っている。
(あぁ、どうしよう‥‥‥この人も疲れているんだろうけど、私も疲れているから、、、)そう思った今日子は体勢を直すふりをして、軽くその女性の肩をふりはらった。
ゴソゴソ‥‥‥としたかと思うと、眠っていたその女性が体勢を正し、ゆっくりと今日子の方を見た。
「ちょっと今日子、なんで私を振り払うのよ。疲れているんだから、寄っ掛かってもいいじゃない!」
その話し声があまりにも自分の声と似ているので、今日子はその女性を凝視すると、
「え!」と声をあげた。
周りの人が一瞬、今日子を見たがすぐに、興味なさげに元の姿勢に戻った。
ボサボサの髪の女性は今日子、その本人にそっくりだった。若干、目の下に隈ができ、肌が荒れている。今日子は自分の頬に思わず触れた。(私、こんなに肌荒れしてない)
「あ、あなた誰なの?なんで私の名前を知っているの?」
「私?私は昨美よ。マイナスのあんた。今日子、あんたが私を呼んだくせに」
「どういう事よ?」
「私はあんたがマイナスの事を考えていたから、ここにいるってわけ。あんたは会社のことをぐちゃぐちゃ考えていたでしょ?だから私と出会えたわけよ。」
「私、別にマイナスな事を考えていた訳じゃない‥‥」
「嘘つかないでよ。あんたは私、私はあんたよ。今日子はもう、会社を辞めようかとか、辞めたいって考えていたじゃない」
「そうだけど、別にそこまでは。。。」
「ウソよ。誰もあんたの味方なんかしてくれない。みんな敵よ。そんなことにまだ気付かないで働いているわけ?」
今日子は、投げ捨てるように言い放つ昨美の顔をマジマジと見た。
(これがマイナスの時の私なの?何だか暗い。そういえば洋服やバッグもみな暗い色ばかり。。。こんな服、私持っていたっけ?!)
「ちょっと今日子、人を値踏みするような見方やめなさいよ!あんたは誰に対してもそういう見方をするんだから。何様のつもり?」
「すみませんが、私、あなたとは友達でもなんでもありませんから、もう話しかけないで下さい。」
「ふーん、そういう態度をとるんだ。そんな風に自分ときちんと向き合わないから、ダラダラとうだつの上がらない仕事をしているのよ、それに...
今日子は耳を押さえると、喋り続けている昨美を残し、閉まる寸前のドアからホームに飛び降りた。背中で扉がゆっくり閉まる。昨美は降りて来ない。
今日子はスーっと息を吸い込み深呼吸をした。
(今のは何だったの?私の分身?他の人には見えていたのかしら...)
今日子はぼんやりとした頭でベンチに腰かけた。最寄りの駅まではあといくつかある。
(なんで私があんなことを言われないといけないの?ダラダラとうだつの上がらない仕事?!)
思い出すと悔しい涙なのか、悲し涙なのか、ゆっくりと泪が頬を伝った。
(あぁ、もうやめよう。もっともっと楽しいことを考えよう。そうだ!今日は約束していないけど、奮発して美味しい白ワインでも買って、大輔の所に押し掛けちゃおうかな)
今日子は明るい笑顔を持つ大輔の顔を思い浮かべた。
交際3年目の大輔は今日子より2歳年上で、IT関係の仕事に就いている。
(あぁ、早く大輔に会いたいな)自然と顔がほころんでくる。
ホームに走り込んで来た電車に乗り、座った今日子はバッグから携帯を取り出し大輔にメールを打ち始めると
「大輔は白ワインより、赤ワインの方が好きよ」
と右隣の女性が話しかけて来た。
「え?」と右隣の女性を見ると、髪がサラサラでとてもシックなワンピースを着ている今日子だった。
「あ、あなた‥‥‥」
「私は明日香よ。あなたがプラスの事を考えて私を引き寄せたのよ。私はあなたのプラス志向の結果の姿。」
そういう明日香を今日子は食い入るように見つめた。
(え‥こんなにマニキュアもきれいに塗ってあって)
今日子は自分の少しハゲかかったベージュピンクのマニキュアの指先を見た。クリームもマメに塗ってないからガサガサした印象が残る。
よくよく見ると、今日子が欲しがっていたブランドのカバンを持っている。
「明日香、あなたは今、何をしているの?」
「私?私は通訳の仕事をしているわよ。同時通訳はまだ苦手だけど」
というと、明日香は切り揃えられた美しい前髪を軽く触った。
「通訳って、それ私がずっとしたかった仕事!私はできるようになるの?」
「それは今日子、あなた次第でしょ。あなたがぐらついていたら、又、昨美に会うだろうし、今のままだったら、私にも昨美にも会わないし、何も変わらない」
ふと、今日子は周りの人がこの瓜二つの自分達をどう見ているのか気になり、視線を周りに移すと、前の座席の学生とOLは何も見えていないように、携帯をいじったり、眠そうな顔をしていた。
「じゃあ、明日香に会えるのも、昨美に会うのも私の気持ちによって決まるということ?プラスの意識か、マイナスの意識かによって?」
「そういう事ね。三人が統合したら、あなたは昨美であり今日子であり、そして明日香でもあるわけだから、とてもバランスが良くなるわ。でも今はまだ、プラスの自分とマイナスの自分ときちんと向き合う事が大切なのよ。」
「どうして今日、突然二人に会えたの?」
「そのタイミングだったからよ。今日は特に両極端の感情を持ったから、昨美にも私にも会ったのよ。」
今日子は、今日会社で起きた出来事を再度思い直してみた。
数ヶ月前に起きていた些細なミスが、数ヶ月後、ものすごく大きなミスとなって表面化してきた。何回も上司の上原に伝えて来たのに上原は聞く耳を持ってくれなかった。そして今日、あたかも今日子のせいだと言わんばかりに、皆の前で怒鳴られたのだ。
「ひどい、それってフェアじゃないわ!そうじゃない?明日香!」
と明日香の方を向くと、そこにはもう、明日香の姿はなかった。キョロキョロと辺りを見回し、いないと分かると
「又、明日香に会いたいな。。。」と呟いた。
「無理よ、今日子は私との方が相性いいもの」
と昨美の声が聞こえた気がした。
正面の窓ガラスに映る自分を見ていると、その顔は昨美、今日子、明日香、そして昨美となり、今日子自身の顔に戻った。
(後ろ向きに考えると作美に、前向きに考えると明日香に会うんだ。本当の私はどっちなんだろう?)
ゆっくりと走り出す電車の中で、流れる景色を見ながら今日子は髪をかき分けた。

02 <2014.12.7掲載>

今日子はバスに乗り込み、中を見回すと最後尾の左の席が目に付き、そこに座った。
日曜日の昼間、バスの乗客も少なく今日子は外の景色を見ながら昨晩のことを思い出していた。
昨夜は久しぶりに学生時代の友達6人で集まって、楽しい女子会の筈だったのだが。。。
6人中3人が年内結婚することになったと驚きの報告を聞き、一人は出来ちゃった婚だが、彼もようやく踏ん切りをつけたから、一緒に暮らし始めていると聞き、もう一人は自分を試すためにN.Yに渡米すると言い出した。
皆の話を順番に聞きながら、自分の顔が少しずつひきつって行くのが分かった。気持ちが徐々に沈むのを、友達に悟られないようにしながら、今日子は自分の番になった時に精一杯の虚勢を張ってしまった。そんな嘘つく必要なんてないのに…。幸せな友達達はキラキラした瞳で今日子の話を興味深げに聞いてくれている。(私だけ…遅れをとっているみたい)会社で大きなプロジェクトを任されていること、大輔がちらほら結婚話をしていること。。。嘘ばかりを並べて、取り繕ってしまった・・・
「あ~あ・・・なんであんな嘘をついちゃったんだろう・・・」
自己嫌悪と悲しみと、よく分からない感情を持ったままバスの揺れに身を任せ、いつの間にか今日子はうたた寝をしていた。
「だから言ったじゃない。あんたの味方は私しかいないんだから。」
耳元で囁かれ、今日子は一瞬飛び上がる程びっくりしてしまった。
気が付けば左には昨美が座っている。
「なんであなたがここにいるのよ!」
前回の不快な思いがフラッシュバックのように甦り、今日子は思わず強い口調で昨美に言った。
「今日子、あんたが私を呼んだって前にも言ったでしょ!」
「私、あなたなんか呼んだ覚えない!」
今日子は、周りの人に助けを求めようとしたが、乗客はいつの間にか今日子だけになっていた。
「往生際が悪いわね。いい加減認めたらどう?あんたは私で、私はあんたなんだから。
昨日だって、一人孤独感を味わっていたでしょ。みんなから遅れをとっていて、あんたは負け組。負け組は負け組の生き方をするのよ。」
「勝手に決めつけないで!」
「見栄張って、まだぺーぺーの仕事しかさせてもらえないのに。大輔だって、まだ結婚のけ、も言ってないじゃない。」
「なんで、そんなことばかり昨美は言うの?そんなに私のことを傷つけて楽しい?」
「私が言っているのは、私の言葉じゃない。今日子、あんたの心の声を私は代弁しているだけなんだからね!
あんたは無能。みんな同じだけ生きてきて、結婚したり、母親になったり、自分を試しに海外に行ったりするのに、あんたは文句言って、大したこともせずに毎日を生きている。そんなんで自分が望むような人生が手に入ると思っているわけ?」
「やめて!」
ガラーっと扉が開き、子連れの親子が乗ってきた。
耳を抑え、顔を伏せていた今日子は恐る恐る左を見たが、そこにはもう昨美の姿はなかった。
頭がボーっとして、次のバス停で今日子は降りた。
(ここ、どこだろう・・・私確か、、、魔法瓶を買いに行こうと思ってたんだ。。。)
今日子は、目の前にあった公園に、重い体を引きずるようにしながら入っていき、ベンチに腰をおろした。
子供が砂場で遊び、その周りをママたちが取り囲むように立ったままお喋りしている。
(昨美が言ってたことは、ひどいことばかりだったけど。。。確かに本当の事を言っているのかも知れない。。。)
悔しいような、悲しいような、切ない気持ちが押し寄せてきた。
すると、一人の女の子が、泥で作ったお団子を今日子の近くのところまで持って来た。
澄んだ瞳を向けながら、今日子にお団子を差し出す女の子。
「お姉ちゃんに。。。くれるの?」
「うん!」
「どうしてくれるの。。。?」
「おねえちゃん、元気ない顔してるから」
そう言い残し、女の子はお団子を今日子に渡し、走り去った。
「。。。ありがとう。。。」
泥の団子を受け取り、それをじっと見つめる今日子。
「私、元気ない顔をしているか。。。あんな小さい子にも分かるんだな」
独り言を言いながら、女の子の行方を探すと、荷物をたくさん持ったおばあさんが目に付いた。
公園を横切って家に帰るつもりだろうか。体に不釣り合いな程の量の食料を抱えており、ビニールの袋がみるみる裂けて、中からリンゴがゴロゴロと転がり落ちてきた。
とっさに今日子はお団子を地面に置き、おばあさんの方に走り出した。
「大丈夫ですか?」
「あ~ぁ、すみません」
今日子はリンゴを拾いおばあさんに渡そうとしたが、ビニールは完全に破けてしまっていた。
「あ、ちょっと待っていてください。」
そう言い残し、今日子は自分のバッグが置いてあったベンチまで戻ると、バッグの中からエコバッグを取り出しながら、おばあさんの元に戻った。
「これ、良かったら使ってください。」
とリンゴをエコバッグに入れながら、おばあさんの方を振り向いた。
「あら~まぁ~、いいんですか~。こんなかわいいバッグ。ご親切にありがとう」
深々と今日子にお辞儀をして、またすごい荷物を持って立ち去ろうとするおばあさんの背中を見つめ、今日子は再びおばあさんに駆け寄った。
「あの~、もしよかったら、家まで一緒に荷物運びますよ」
今日子が呼びかけると、おばあさんはじっと今日子の顔を見つめ、ふっとほほ笑み、
「そうですか~。それじゃあお言葉に甘えて。。。ご親切にありがとう」
おばあさんは深々とまたお辞儀をしようとしたので、今日子はそれを制しておばあさんの荷物を持った。
公園を出ると、緑道になり美しい紅葉に包まれながら二人はゆっくりと歩いた。
(こんなところにこんなきれいな緑道があったんだ)
今日子は気持ちよく深呼吸した。
「今日はね、久しぶりに孫が遊びに来ることになっててね、孫の好きなアップルパイを久しぶりに作ってあげようと思ったら、いろいろ買いすぎちゃって」
「そうだったんですね~。アップルパイ作れるなんてすごいですね」
「簡単なのよ。ちょっとコツさえ掴んでしまえばね」
「お孫さんはおいくつなんですか?」
「確か大学3年生だったはず」」
道中、二人はお互いの名前を教え合い、楽しく会話をするうちにいつに間にか古い一軒家に着いた。
「まぁ、本当にどうもありがとう。今日子ちゃん」
「いいえ、どういたしまして。」
「あ、ちょっと待っていてね」
とおばあさんが家のカギを開けようとした時、扉がバッと開いた。
中から、中肉中背の男の子が飛び出してきた。
「ばあちゃん、どこに行ってたんだよ!心配してたんだぞ!」
と言いながら今日子の存在に気づき、急に黙りこくった。
「ご親切な今日子ちゃんが私の代わりに荷物を持って家まで送ってくれたんですよ~。こちら私のかわいい孫の大地。」
大地は恥ずかしそうにしながらも今日子にお辞儀をした。
今日子もお辞儀をして大地を見た。
品の良いおばあちゃんに顔立ちが似ていると思った。
おばあさんは今日子のエコバッグからリンゴを全部出して、きれいにたたんで今日子に渡した。
「今日子ちゃん、今日は本当にありがとう。本当に助かりました。」
そう言いながら
「これ、お礼に持って行ってね。ものすごくおいしいリンゴだから」
と2つ今日子に手渡した。
「え、いいんですか。。。ありがとうございます。」
「今度は遊びに来てね。」
そういうとおばあさんはぎゅっと今日子の手を握った。
深々とお辞儀をして手を振るおばあさんと、どういう顔をしたらいいかわからないような表情の大地に見送られながら今日子は軽い足取りでバス停まで歩いた。
(魔法瓶はまた今度買いに行こう)
バスが来て今日子は乗り込み、最後尾の一番右に座った。
(今日は何だかいい日だったな。おばあちゃんにも出会えたし。)
流れる景色を見ながら、今日子は幸せな気分を味わった。
「今日はいい日だったわね」
いきなり話しかけられたが、右に座っていた明日香をみても今日子は驚かなかった。
「うん。さっきまでは昨美に色々言われたりして、気持ちが沈んでいたけど、今はいい気分。だから明日香にも会えたんでしょ?」
「そうよ。今日子がとてもポジティブな状態だから私と会えたのよ。」
「でも、明日香も知っていると思うけど、昨日は本当に参っちゃって。。。」
「今日子はなぜ、人と比べるの?人と同じだと安心するから?」
「うん。。。そうかも知れない。。。」
「でも、それは本当に自分が望むことなのかしら?
物事は、人と同じタイミングで起きないことの方が多いわ。仮に、今の状態で今日子が仕事を任されてもあたふたするだろうし、大輔と結婚したとしても、お互いに思い合えなくて不況和音が起きるかも知れない。すべてはベストなタイミングで起こるのよ」
「みんな、素直な気持ちで私の話を聞き入ってくれているのに・・・何だか罪悪感も感じちゃって。。。」
「昨日来ていた香奈だって、N.Yに行くまでにどれくらい大変な思いをしたと思う?由紀子だって、彼のお母さんがすごい嫉妬深いか前に聞いたことあるでしょ?」
「香奈は確かに昔から頑張りやだったし、由紀子はデート中に彼ママから何回も電話がかかってくるって怒っていたことがあったな」
「みんないろいろな気持ちを抱えながら生きている。大変なのは今日子だけじゃないわ。」
「本当にそうね。。。」
「何かを変えたかったら、自分が変わらなくちゃ。自分の人生の責任を人に委ねずに自分で持たなくちゃ。」
「分かったわ!私明日から。。。」
と明日香の方を振り向いたが、そこにはもう明日香の姿はなかった。
(もっと、もっと明日香に会っていろいろ話がしたい!)
今日子は明日からあることを始める事にし決めた。そして、その決め事をするために必要な物を買いにバス停を降りた。
気持ち、その表情は明るかった。

03 <2015.7.1掲載>

今日子は先日、LOFTで買った赤いカバーが付いているイタリア製のノートを開いた。
文房具にしては高かったノートだが、これからの自分の目標を書くには相応しい気がして一発で決めた。
一緒にシックな万年筆も買った。
この二つをいつも持ち歩いてはいるのだが、1ページ目を書きはじめるのに時間がかかっている。
ため息をハーっとついた。
日中の国立図書館はガランとしていた。

遠くに社会人のような男性がパラパラと本をめくっているのが見える。
今日子は目線を窓際に移した。窓の外には緑色に覆われた中庭が広がる。
外に出ようかなとも思ったが、やめて代わりにハーっと再びため息をついた。  
昨晩の大輔とのやり取りはキツかった。
忙しい最中に時間を作ったのもあり、お互いに労りが足りなかった。
大輔も少しイライラしていた。
どっちが先にお風呂に入るとか、テレビのチャンネルをどちらが観たいのを優先にするか?そんなくだらない小競り合いを何回かした後に、今日子は先日の女子会の話を再度したのだ。
6人中3人が結婚が決まり、「私たちもそろそろじゃない・・・?私だって結婚したいし・・・」と言いかけた時に、大輔がそれを遮るように「そういう話は、もう少し気持ちに余裕のある時にしないか?」と半ばイラついた調子で言ってきたのだ。
会社の話やら、ため込んでいた感情が一気に出てきた。生理が近かったのも原因かも知れない。気が付いた時には
「もう、いいよ!!」っと叫んで、カバンを引ったくるように取って、大輔の家を飛び出していた。
それから今まで、メールも電話も来ない。
「ハーッ」ともう一度ため息をつき、机に顔を伏せると
「今日子、さっさとそんな不誠実な男と別れたらどうなのよ。」
左側から、聞き覚えのある昨美の声が聞こえてきた。今日子の声を少し曇らせたような声をしている。
今日子は無言で起き上がると昨美を見た。
目の下の隈は相変わらずで、アイラインが太く、到底今日子がしそうにないメイクを昨美はしていた。
瞳が闇色のように深かった。
「大輔なんて、あんたの事なんかちゃんと考えてくれてないじゃない。あんたには似合わないわよ。お互いに労り合うことなんて、まるで出来ないじゃない。フンッ。それでカップルなんて、よく言ったもんだわ。呆れちゃう」
昨美は黒の半袖のTシャツの袖をまくりあげ、ボリボリと腕を掻きながら話をしている。
赤いジンマシンのようなものができていた。
今日子はその様子をただジーッと見ていた。
「今日子、もう勘弁して私と仲良くなんなさいよ。あんたの友達みんな結婚していくし、もう疎遠になるわよ。友達なんて他にいないでしょ!大輔だって優柔不断だし、もう必要ないじゃない。私達うまくやっていけると思うわよ。私達は二人で一人前じゃない。」
「ハー、もういいわよ、昨美。あなたこそ友達がいないんじゃないの?だから私にしつこく付いてくるんでしょ。」
「はぁ?今日子、今何て言ったのよ?勘違いしないでちょうだい。私は怜子やのぞみとも仲が良いんだから。」
「怜子?ってあのいじめっ子の怜子?高校の時散々意地悪してきた怜子と仲が良いって言うの?」
「そうよ。いじめられる方が悪いんだから。」
「!!!のぞみってまさか、リストカットばかりしていたのぞみ?」
「仕方ないじゃない。のぞみが悪いわけじゃないんだし。」
「いい加減にして!」
ドンっと、今日子は図書館の机を叩いた。
お団子ヘアの司書の一人がキリッと今日子の方を見て睨んだ。
今日子は小さな声で「すみません」と頭を下げながらも、
「昨美、あんたも、あんたの友達もみんな人のせいばかりしている。私はそんな生き方をしたくないの。怜子にいじめられて、意地悪されて傷ついた。他にも何人も被害者はいるわ。弱い人につけ込むような怜子と友達だって言うあんたが信じられない。
のぞみだって、何か気に入らないことがあると、すぐに手首切って気を引きたいだけ。みんな勝手な人たちばかりじゃない!私はあんたなんかと同じじゃないんだから。私は・・・私はこれでも一生懸命生きてるんだから・・・!」
言いながら怒りで今日子はワナワナ震えていた。
昨美は文句を言いたげにしながら、やがて薄くなり消えて行った。
ふと気が付くと、先ほどの睨んだ司書が今日子の真横に立ち、
「他の閲覧者の方もいらっしゃるので、お静かにお願いいたします!」
と言うと、くるりと向きを変えお団子を揺らしながら作業に戻った。
呼吸が激しく、肩はまだ上下していた。
「よく言ったわね。今日子」
右の肩に明日香が優しく手を置いた。
ゆっくりと今日子が振り向くと、水色の美しいワンピースを着て、ほほ笑んでいる明日香がいた。
「私、なんか悔しくなっちゃって・・・」
「せっかく買ったノート、まだ使ってないでしょ?」
「うん・・・毎日なりたい自分の為に目標を決めて書こうと思っていたのに、結局まだ書けてなくて・・・」
「一つアイデアだけど、目標とかあまり堅苦しく考えずに、一日一回感じたことや、気に入ったフレーズを書き留めたり、写真とか張ったらどう?」
食い入るように明日香を見ていた今日子は
「明日香、私どうやったら、もっと明日香に近づけるんだろう?」
「今日子、忘れないで。私はプラス思考がもたらした結果の姿。今日子の進化版ってところかな。毎日続けて意識して行動していくことは、決して楽ではないけれど、自分をもっと信じるということが大切よ。ないがしろにせず、悲観もしない。」
明日香はパールピンクのマニキュアがついている美しい指先で前髪を掻きわけた。
「また、昨美が出てきたらどうしよう・・・」
「昨美は実は淋しんぼうなのよ。怜子にしたって、のぞみだってそう。心のS・O・Sをうまく出せないのよね」
「・・・」
「目標を高く設定しすぎなくていいのよ。一気にじゃなくて少しずつ。一歩一歩よ。」
明日香はフっとほほ笑むと、そのまま消えて行った。
「明日香・・・もっと話したいのに!」
今日子は明日香が消えた後もしばらくその場所を見つめていた。
しばらくすると、
「あの。。。こんにちは。。。」
明日香との会話を思い返していた今日子がゆっくりと顔を上げると、そこには以前、今日子が荷物を運ぶのを手伝ってあげたおばあちゃんの孫がいた。上品な顔は少し困ったような表情を浮かべていた。
「あ、こんにちは…確か大地さん?でしたよね?」
「あ、はい。どうも。あの…どなたかとお話していたんですか?」
「あ、いえ、独り言を…」
「え?そうなんですか…?」
釈然としない様子で大地がいうので、今日子は慌てて話題を変えた。
「あ、あの静子おばあちゃん、お元気ですか?」
「はい、元気は元気なんですけど…」
「どうかしたんですか?!」
パタンパタンとサンダルの音を響かせながら、先程の司書が眼鏡を光らせて近づいて来たので、今日子は咄嗟に、
「あ、すみません!今、外に出ます!」
と言って大地を押しながら中庭に出て行った。
「すみません!押しちゃって、ここまで連れて来ちゃって。さっきも注意されたもので」
とばつが悪そうに今日子は笑った。
「あ~、は~、そうだったんですか。」
「それで、おばあちゃんは?」
「はい、実はあの荷物を運ぶのを手伝ってもらった翌日から認知症になってしまって…」
「え?突然ですか…?アップルパイを大地さんの為に作るって張り切っていたのに…」
「それが翌日台所に立ったら、何を作ろうと思っていたか分からないって。アップルパイの作り方なんか知らないって…」
「えっ…?」
「それで実はさっきの今日子さん…みたいに誰かと話す事が多くなって…でも、いないんですよ…誰も…」
今日子は何と言っていいか分からず、優しい静子おばあちゃんの顔を思い出した。
「親父のこともお袋のことも分からないのに、俺のことだけはわかるんです。あと今日子さんの事も覚えていて」
「私のことを?おばあちゃんが?」
大地は我に返ると腕時計を見た。
「ヤバっ!もう行かないと。すみません。ばあちゃん心配だから寮からしばらく実家に帰ってるんです。認知症についての本を少し読んでみようかと思って今日、来たんですけど。
あの、今度良かったら、ばあちゃんに会いに来てやってくれませんか?何か思い出すかも知れないので…」
「あ、はい、私で良かったら」
「メールください。ばあちゃんにも今日子さんに会ったことはなしておきます。」
そういうと、大学ノートの切れはしに携帯番号と“小野 大地”と書き、それをちぎって今日子に渡した。
「こんな紙ですみません!じゃあ失礼します!」
と頭を下げると大地は急いで出口に向かった。
今日子は静子おばあちゃんの顔を再び思い出しながら(おばあちゃんは誰とお話をしているんだろう…私みたいにマイナスな時は昨美に、プラスの時は明日香に会うように、おばあちゃんは自分自身とお話しているのかしら…)と考えた。
ゴーン、ゴーンとお昼を知らせる鐘がなったと同時に、メールが届いた。
『今日子、昨日は言い過ぎた。ごめん。今日仕切り直しで昨日飲まなかったワイン飲みにこないか?大より』

04 <2015.9.20掲載>

今日子は先日、大地からもらった携帯番号にショートメールを送ってみた。
”こんにちは、先日はどうも。その後静子おばあちゃんのご様子はいかがですか?”
ランチを食べ終え、洗面所に向かった。まだ20分以上時間がある。
化粧直しをしていると個室から同期の田中ゆきが出てきた。
手を洗いながら
「ちょっと、今日子聞いた~?」
と話し出した。
「え?何を?」
「斉藤さやかが新人指導のマネージャーに大抜擢されたらしいよ!」
「え?!」
斉藤さやかは今日子の2こ下の後輩で今日子も新人指導にあたっていたが、確かに頭のキレる、且つ仕事が早い子だった。若干上から目線の言い方が鼻につくのだが。。。
「どうして、斉藤さやかが・・・?私やゆきもいるのに、それを飛び越えて。。。」
「どうやら研修期間にやった企画がすごぶる良くて、渡辺部長の大のお気に入りになったらしくて」
渡辺部長。。。ねっとりとした視線を持つ、今日子は苦手なタイプの上司だった。でも、斉藤さやかならきっと。。。うまくかわしていくんだろう。
「は~私たちも頑張らないとね~」
と言い残して田中ゆきは去って行った。
「ふ~」とため息をつき、メールの着信があったので開いてみると大輔からだった。
”今日子、夕方から会議になって、抜けられそうにない。今晩は延期にしてくれ。店の方はオレからキャンセルしておくから。ごめん!あと来週出張が入った。今日子の誕生日プランも延期になりそうだ。この埋め合わせは必ずするから!取り急ぎ!”
仕事の合間に送ってきた慌ただしさが伝わってくるようなメールだった。
「は~」
今日子は再びため息をついた。
来週は今日子の29歳の誕生日で、二人で楽しいプランをいろいろ考えていたのだ。
今日子は時計を見るとまだ20分弱あったので、ビルの屋上に上ることにした。
外の空気が吸いたかった。
エレベーターが最上階に着いた時には、今日子は例えようのないイライラや焦りを感じていた。
人がまばらにしかいない屋上で、誰もいない方に向かって歩いた。金網越しに下界を見下ろす。
「どうして!どうして、こうやって立て続けに落ち込むことばかり起きるの?!」
今日子はそういうと金網をぐっと引っ張った。
「ほら言ったじゃない。今日子。あんたは一人じゃダメだって。」
今、最も聞きたくないと思った昨美の声が聞こえた。
「放っておいてよ!」
昨美を振り返りながら今日子は叫んだ。
いつものぼさぼさの髪の毛、グレーのカーディガンには少しシミが付いている。
「仮に友達が一人もいなくたって、昨美、あなたとは絶対に友達にはならない!」
「何度言わせるつもり?あたしを呼んでいるには今日子、あんたなのよ!いい加減にそのことに気付いたら?」
「私は昨美、あなたみたいにはなりたくない。いつも暗い恰好して。人の悪口やネガティブなことしか言わなくて。」
「フン、あんた、それ自分自身に言っているのよ」
と昨美は鼻で笑った。
「さっき斉藤さやかがマネージャーになったって聞いて、焦って怒りを感じたでしょ?」
今日子は黙っていた。
「大輔だって、嘘ついているかも~」
おちょくるように昨美は言いながら嫌味な笑いを浮かべた。
「大輔、同期の矢代さんと仲良しなの知ってる?」
 「え?矢代さんて帰国子女の?」
前に大輔から話を聞いたことがある。確かドイツからの帰国子女でドイツ語と英語が堪能だが、たまに変な日本語を話すと聞いた気がする。
「そうよ。二人で飲みに行ってたりして~」
「憶測でものを言うの、やめてよ。大輔は私を裏切ったりしないんだから」
「今日子、あんたみたいにくすぶっている女のどこに魅力を感じるんだろうね、大輔は」
「なんで昨美はそういう言い方しかできない訳?人をなんだと思っているのよ!」
「冷静に考えてごらんなさいよ。あんたの取柄は何ナノ今日子?ん?」
「私の取柄。。。」
「人はみな成長すんのよ。大輔は成長してないあんたのどこに惹かれるっていうの?おんなじことグルグル繰り返してさ」
「。。。。。」
その時着信メールがあった。そのバイブと同時に昨美は消えて行った。
ぼんやりとメールを開くと、
”今日子さん、ご連絡遅くなってすみません。大地です。ばあちゃん、元気は元気なんですが、記憶力はすっかり。良かったら今度顔を出してやってください。俺もバイトの日以外は家にいますんで。何だか。。。すみません”
今日子はメールを読み終えると時間が13:00近くなっていたので、慌ててエレベーターに向かった。
”大地さん、突然ですが今晩ちょこっと静子おばあちゃんに会いに伺ってもよろしいですか?」
とメールを打った。
夕方近くなり、今日子は再度メールをチェックすると大地から
”今日、バイトないので是非いらしてください。道分からなかったらバス停まで迎えに行きますので”
と入っていたので
”良かったです。家、分かると思います。バスに乗ったらご連絡しますね”
と書いて送信した。
会社の近くの有名なケーキ屋さんでアップルパイを買った。
今日子の頭の中は後輩の昇進のことや、大輔の事やらでグルグルしていたが降りるバス停が近づいて来ると、次第に静子おばあちゃんの事ばかり考えだした。
「不思議なおばあちゃん。。。」
一度しか会った事ないのに、とても懐かしい気持ちになる。少女のように楽しげにアップルパイの作り方を教えてくれた静子おばあちゃん。
降りるバス停が近づくとなんとそこには大地が立っていた。
「わざわざすみません、来てもらっちゃって・・・」
「こちらこそ、私たぶん行き方分かったのに」
「いや、・・・外が大分暗くなってきたから」
「お迎え、ありがとうございます」
と言って、2人は互いに顔を見合わせて笑って歩き出した。
「ばあちゃん、今朝も誰かと話してたんですよ。誰かって、その姿は見えないんですけどね~」
今日子は一瞬自分の事を言われたかのようにびくっとしたが、そんなことあるわけない、と思い直し
「そうなんですか~」
と言った。
大地は大学で心理学を勉強していると朗らかに笑った。
今日子はその笑顔を見て、心が癒されていくのを感じた。
身長が少しだけ前会った時よりも高くなっている気がした。
家に着くと、
「ばあちゃん、今日子さん来てくれたよ。」
と言って大地が先にリビングに入った。
出されたスリッパに足を入れ、リビングに今日子が入ると
「まあ~今日子ちゃん、よく来てくれたわね~」
差し出された両手を今日子も握り返した。
「静子おばあちゃん、こんばんわ。このアップルパイ、すっごく美味しいんです。おばあちゃんの手作りには負けるだろうけど。良かったら後で召し上がってください。」
「ありがとう、今日子ちゃん。私、アップルパイ何て作ったことないけど、大好きよ」
今日子と目を合わせ、大地は頷くとお礼をしてケーキの箱を持ってキッチンに消えた。
「お手伝いさんが2人とも仕事で今日は孫の大地と2人なのよ~。」
静子は歌うようにお話した。
「おばあちゃん、お元気そうで良かったです。」
「元気なのよ。ただ色々忘れちゃうみたいでね~」
キッチンから
「お手伝いさんって、おやじとお袋のことだろ、ばあちゃん」
そう話しながら麦茶とアップルパイを今日子の前に置いた。
「まあ~、おいしそう。頂きます」
と言ってアップルパイを食べだす静子。
「こんなおいしいアップルパイが作れたらいいわね~」
「ばあちゃん、前に作っていたんだよ。とびきりおいしいの」
「大地、嘘はやめなさい。私ケーキを焼いたことなんか一度もないんだから」
大地と今日子は目を合わせた。何だか、大地が痛々しかった。
ひとしきりお喋りをした後、今日子はお手洗いを借りた。そのタイミングでインターホンが鳴り大地が席を立った。
今日子がトイレからリビングに向かうと、
「そうなのよ~、私もそう思っているの。うふふふ」
と静子の笑い声が聞こえてきた。
扉をゆっくり開けると、静子が嬉しそうに右上の方を見上げている。静子の目の先にあったものは。。。体が透けている静子とよく似た男性だった。
ぎょっとした今日子は
「あ!」
と思わず発してしまい、振り返った静子に
「す、すみません!」
と謝った。いつの間にか幽霊?は消えていた。
「あら~、今日子ちゃん、やっぱり見えていたのね~。30代で亡くなった私の仲良しの弟よ。今日子ちゃんと出会った翌日から見えるようになったのよ。」
「そうなんですか?」
「でも皆には見えてないみたいだから、シーっね。」
といたずらっぽく、ほほ笑んだ時に大地がリビングに箱を抱えて入ってきた。
「ばあちゃん、通販で日本酒注文したの?」
「したかしら?ああ、したわね~。もう届いたの?早いわね。」
「早いわねって、ばあちゃん、日本酒なんて飲まないでしょ?」
「晃が飲みたいって言ってたから。新潟のはおいしいらしいわね」
「晃おじさんは、俺が生まれる前に亡くなっているじゃない」
「そうね~。まあ、晃を思い出しながら、大地も20歳過ぎたんだから一緒に飲みましょう。あ、良かったら今日子ちゃんもね。私、何だか眠くなっちゃったから、夕飯まで寝るわね。今日子ちゃん、本当に来てくれてありがとう。また是非遊びに来てちょうだい」
と言って静子はゆっくりとした足取りで隣の和室に消えた。
そして今日子には確かに見えた。その静子の後ろ姿を見守るスケルトンの晃の姿が。
帰り道、今日子は自分が見えたものを話すか話すまいか迷っていた。
黙りこくる今日子に
「あの~、すみません、疲れちゃいましたよね・・・?」
気を遣ったように大地が話しかけてきた。
「いいえ、そんな。全然疲れてなんかいません。静子おばあちゃんに会えて、本当に良かったです。」
「突然急に・・・今日デートだったりしませんでした?」
「。。。」
「すみません。当たっちゃいましたか」
「今晩は残業ってフラれちゃったんです。あは」
「やっぱり今日子さん、彼氏いるんですね。そうですよね~」
それからしばらく二人は無言のまま歩いた。バスが間もなく到着という時に
「あ、あの、今日子さん、またばあちゃんに会いに来てやってください」
「あ、はい、もちろんです」
「ばあちゃんも喜ぶと思いますし、それに俺も。。。また今日子さんに会えたら嬉しいです!」
そう言い残すと、一礼して大地は走り去った。
今日子は
「ありがとうございました」
とその背中に叫び、バスに乗り込んだ。
少しまばらに乗客がいたが、ちょうど今日子が乗ったバス停で、何人かが降りて席が3つ空いたので今日子はそこに座った。
(今日は午後、へこんだけど静子おばあちゃんに会えて本当によかった。)
今日の出来事を振り返っていたときに
(本当に良かったわね)
と今日子の心に明日香の言葉が入ってきた。
右の窓ガラスに明日香が映り今日子に微笑みかけている。
(明日香!)
思わず声に出しそうになったが、窓に映る明日香のシーッと口元に指をあてるポーズで、慌てて言葉を飲み込んだ。
(心の中で通じるわよ)
(明日香、会いたかったわ!)
(今日子、今日は一日いろいろあったみたいね)
(昨美にボロクソ言われちゃって)
(100も承知だと思うけど、昨美はマイナスの塊になった時の今日子、あなたの姿なのよ)
(それは昨美にも言われたけど、私、昨美ほど性格きつくないと思うんだけど)
(ある程度分かり易く拡張しているのはあるかも知れないわね)
(誰がそんなことをするの?)
(宇宙よ。私も今日子も昨美も宇宙全体の一部だから)
(よく意味が分からないわ)
(今はまだ知らなくていいのよ)
(そういえば大輔って浮気しているのかな・・・?)
(今日子はどう思うの?)
(そんなことある訳ない。。。って信じたいけど信じきれない自分もいる)
(大輔も今、忙しいのよ。)
(ねえ、明日香、一つだけ聞いてもいい?)
(?)
(明日香は今、大輔と付き合っているの?)
明日香は窓ガラスの中でフッと笑い前髪を掻きわけた。
(今日子、なかなかイイ質問するわね!半分答えるわ。付き合っている人?はいる。大輔かどうか?それは今日子の想像に任せるわ。)
(え~、教えてくれないの?)
(そんなこと、今日子の意識で変わるのに教えられないわ。一つだけ言えることは、今日子がプラスで、高い意識でいれば、そういう相手と共にいることになる。マイナスだったら、それに見合った人。大輔もそうよ。彼がプラスかマイナスでいることによって引き寄せるものも、付き合う相手も変わってくる。)
(ふ~ん、そうなんだ。。。ねえ、明日香、変われない自分からの脱却方法ってある?)
(もちろん。目標や夢に向かって一歩ずつ、少しずつでも積み上げ、積み重ねていくことよ。小さなゴールをたくさん作ってもいいわね)
(step by step)
(そう、step by step。そういえばあのノートちゃんと書いているの?)
(あ、それが。。。)
(そうそう、これも脱却するコツ。言い訳はしない!自分で決めた行動は自分で責任を持ちやり遂げること。)
(わあ、耳がいたい!そうだ、明日香、私急に幽霊?みたいなものが見えるようになったんだけど、そんなことありえるのかな?)
(幽霊ではなく、正しくは霊ね。今日子は知りたがりね!知る前に体験しないといけないこともあるわ。誰かから聞く情報ではなくて。自分が体験すること)
(え?どういうこと?)
と窓ガラスを見たがそこにはもう、明日香の姿はなかった。
(体験って突然、霊が見えるようになったりするの。。。?)
今日子は窓ガラスに映る車のライトを見ながら、晃の顔を思い出そうとしていた。

05 <2015.12.20掲載>

今日子は一人、江の島の海を見に来ていた。
本当は大輔とくる筈だった海デートは、又もや大輔の仕事の都合で延期となった。
「は~」
小さな波が打ち寄せ、今日子はぼんやりと流されていく砂を見ていた。
(いやだ、いやだ、こんなことしていたら又昨美が出てくる。私は明日香に会いたいんだから!)
少し肌寒くなり、ゆっくりと立ち上がり、ズボンに付いた砂を払っていると携帯に着信があった。
(かおり?)
メールは、近所に住む幼馴染のかおりからだった。
しょっちゅう会っている訳ではないが、どこか心が繋がっているのか、何かあるとお互いに連絡を取り合っている。
大輔とかおりの彼氏と4人で飲んだことも何回かあった。
”今日子~、今日は大輔君とデートでしょ?さっき代官山で花束持って急ぎ足で歩いているの見たよ~。私も今日子の誕生日プレゼント買っているから、今度また4人で飲まない?かおりと大輔君の空いてる日を教えてね。
大輔君にもよろしく。同じく翔太とデート中のかおりより”
一回目は意味が分からず、何回か読み返していくうちに心臓がトクトクと音を立ててきた。
「大輔・・・?」
(今日って仕事じゃなかったの・・・?)
今日子は心臓の音が周りにも聞こえてしまうのではないか?と思うくらい、大きな動機を感じた。
そして深呼吸すると、意を決して大輔に電話を掛けた。
1回、2回、3回目で繋がると
「だ」
「ただ今、電波の届かない場所か、電源が。。。」
留守番メッセージが聞こえ、今日子は電話を切った。
3回目、かけようとしたときに
「もう、やめれば?」
と言う昨美の声が左側から聞こえてきた。

今日子は電話を切ると、ゆっくりその場に再び座り込んだ。
「私の事、ざまみろって思ってるんでしょ?」
昨美を見ずに今日子は言った。
珍しく昨美が黙っているので、今日子は昨美の方に目を向けた。
昨美は今まで見たことがないくらい静かだった。
左手首に包帯を巻いている。
「昨美、その手首どうしたの?」

「自暴自棄になったあんたが、ちょっと手首切ったのよ。別に深くないけど」
今日子はまじまじと自分の手首を見たが、そこには何の傷跡もない。
「どういうこと・・・?」
「前にも話したように、あたしはマイナスのあんたが生み出した存在。あんたがずーっとマイナスを引きずっていたら、こういう行動に出るってこと」
と言って、左手首を上げた。
「よく分からないわ。。。それは。。。私に警告のように教えてくれているってこと・・・?」
「別に、そんなことはどうだっていいじゃん。今のあんたは手首切ってないんだから」
そう言うと、昨美は正面の海を見つめた。心なしかセーターの色が少しだけ明るくなっている気がした。
「昨美。。。今日は嫌味言わないんだね・・・」
「今日子、相変わらずあんたはバカだね。ちっとも学んでない」
「え?」
「あたしはマイナスのあんたって言ったでしょ?あんたがマイナス部分が少なかったら、あたしがあんたに伝えることも少ない。あたしはあんたの鏡なんだから。」
「。。。」
「最近悪口、文句、愚痴を減らす努力をしているあんたがいる。今日は大輔の事で久しぶりに感情がマイナスになったからアタシを呼んだんだ」
そういえば最近昨美も今日子も前ほど現れてなかった。。。と今日子は思った。しかし、思考はすぐに大輔に移った。
「大輔・・・」
「あんたはどうしたい訳?」
「どうって、きちんと説明を・・・」
「何の?他に好きな子が出来たから別れてくださいって?」
「もしかして、何か急用があって・・・」
「今日子、あんたいい加減目、覚ませば?急用ができたって言ってデート断って、花束買って、いそいそと待ち合わせ場所まで行く男のどこに魅力がある訳?いい加減しがみつくのやめたら?」
「あんたもあんたで、仕事がいまいちうまく行かないから、結婚して良い専業主婦になる、、、甘っちょろい考え。まあ、そういう意味で言ったらあんた達そっくりで似たものカップルだけどね。
でもあんたのそんな夢が大輔には重いの気付かない?そんな逃げ婚、うまく行くわけないっつーの」
今日子は珍しく言い返さなかった。その通りだと思ったし、返す気力もなかった。
「うすうすね。。。気付いていたんだ。。。何だか私に会うの避けているみたいだったし。その割にフェイスブックでいろんなところに行っている写真アップしてたから・・・」
「さっさと気付けよ」
昨美にどんなに荒っぽい言い方をされても今日の今日子は腹が立たなかった。
「あ~つまんない。もう、行くわ」
昨美は立ち上がった。
今日子はふと思い、影が薄くなっていく昨美の背中に向かって声をかけた。
「昨美~、もしかして私今日、ここに来てなくて家に一人でいたら・・・切っちゃってたかも。。。手首・・・軽くだろうけど。。。教えてくれてありがとう。。。」
昨美がふんっと笑った気がするが、定かではなかった。
今日子はカバンからノートを取り出した。
昨美について初めて感じた感情を書きだした。
そして大輔の事も。
悲しみと、悔しさと、一杯な気持ちになり涙がこぼれてきたが構わず今日子は書き続けた。
”自分はどうしたいのか?”と
繰り返し自問自答した。
気が付けば陽は沈み真っ暗で自分の文字も読みづらい。
立ち上がろうとしたときに、携帯が鳴った。
大輔からだった。
今日子は深呼吸をして、電話に出た。
「もしもし。。。?今日子?」
「うん。」
「今、どこ?」
「江の島の海岸」
「江の島?。。。そっか。。。」
沈黙が続いて今日子は
「大輔、話したいことがあるの。。。今から、、、って言っても1時間後位だけど会えない?」
「。。。うん、俺も話したいことがあるから」
二人は待ち合わせ場所を決めて電話を切った。
今日子は江ノ電に揺られながら、これから大輔に伝えようと思っていることを頭の中で反芻した。

待ち合わせのカフェには大輔が先に着いていた。今日子のお気に入りのネイビーのブレザーを着ていた。
今日子が店内に入ると手を上げた。
二人は注文した飲み物が来るまで一言も話さなかった。
今日子のカフェオレが運ばれ、
店員が
「ごゆっくりどうぞ」
と下がると、
大輔が
「今日子。。。今日は本当にごめん。今日子の話って。。。?」
「大輔。今日ね、かおりからメールもらったの。花束持って急いでいる大輔を代官山で見かけたって。これからデートなんでしょ?なんて言われちゃって、何だかみじめだったよ」
大輔はみるみるうちに顔が赤くなり耳まで赤くなった。
「今日子、ごめん、オレ」
「大輔、私の話を先に聞いてくれる?大輔が他の子と出かけているんじゃないかって、薄々感じていたの。。。正直今日はショックだったし」
「ホントにオレ・・・」
「聞いて!でも私気付いたの。大輔に甘えすぎていたって。自分じゃ大して努力もしないで。。。でもやっぱり大輔が好き。だから、私に1回だけチャンスをくれない?もっともっと魅力的になるから!お願い!」
と言って今日子は頭を下げた。
大輔は頭を掻いて
「おれ、、、今日子に嘘ついてたのに。。。そんなこと言われる資格なんてないよ・・・」
「大輔、1年後に私と会って。うううん、半年で何とかする。それでダメだったらその時は諦めるから」
そう言い残すと今日子はカフェを飛び出した。
小走りで街を走り抜け、地下鉄の階段を降りた。

はあはあ言いながら、改札を通り抜けた。
ベンチにペタンと座った。
「今日子、良く頑張ったじゃない」
右から聞きなれた、明日香の声が聞こえてきた。
「明日香。。。」
明日香は仕立ての良いこげ茶色のトレンチコートを着ていた。今日子を見てにっこりほほ笑んだ。
「今までの今日子だったら、大輔を攻めたててケンカになっておしまいだったかもね」
「ホント。。。自分でも意外だったけど・・・」
「やっぱり大輔が好きなのね。」
「うん・・・」
「大輔もね会社でのゴタゴタを今日子に聞いて欲しかったみたいよ。でも今日子はそれどころじゃなくて、自分の事で手一杯だった上に、結婚に逃げたいと思っていたしね」
「なんで明日香は教えてくれなかったの?」
「それは今日子が気付かないと意味がないからよ。仮に私が伝えたところで結婚に逃げる思考、やめていた?」
「・・・確かに、、、やめてないかもね。。。そういえば今日、昨美に会ったけど何だか静かだった。手首に包帯撒いて・・・」
「昨美も、今日子の一部。あまり痛めつけちゃだめよ」
今日子は自分の左手首を擦った。
「ねえ、、、明日香。前にも聞いたけど・・・教えてもらえなかったけど、、、明日香は今、大輔と付き合っているの・・・?」
明日香はフッと笑った。今日子は明日香を見て、どことなく昨美に似ていると思った。(そりゃそうか。明日香も昨美も私なんだもん)
「私が今、大輔と付き合っているって言ったらどうするの?」
「嬉しいし、、、安心する。。。」
「じゃあ、もし大輔以外の人と付き合っているって言ったら?」
「え。。。考えたこともなかったから・・・大輔じゃないの・・・?」
「お楽しみよ。今の今日子には知る必要はない。でもこれだけは伝えておくわ。今、私はとっても幸せよ。彼と一緒にいて」
ほほ笑んだ明日香が、消え去ろうとしていたときに、左手の薬指にきらっと光る指輪が目に付いたのは気のせいだっただろうか。今日子は目をこすった。

電車がホームに近づいて来る。
今日子は意を決したように立ち上がり、明日から始める自分磨きのイメージを膨らませた。

06 <2016.2.20掲載>

今日子は、いつもより30分早起きをして目覚めると、ノートを取りだし、今日一日のスケジュールを書きこみ始めた。
昨日、大輔と別れた後に様々なことを繰り返し考えたが、クヨクヨしている方がもったいない、と思いようやく眠りについた。
朝食を済ませると、身支度をして最終チェックの為に鏡の前に立った。
寝不足のせいか少し目の下に隈があるが、瞳は輝いて見えた。
「私は出来る!必ず出来る!」
というとほっぺたを両手で叩いて
「良し!」
というと鞄を持ち、家を出た。iPhoneにイヤホンを付けて英語を流す。
最近、運動不足だったので、早起きをして二駅分歩くことにしたのだ。サボっていた英語も再スタートした。
いつもより30分早いだけなのに、人の流れが少なく、今日子はなんだか少し得をした気分になった。
周りの景色がキラキラして見える。人や車までもが。
(どうしたんだろう…?!なんだかすべてが眩しく輝いて見える)
「それは今日子がプラスな気持ちでいろいろと頑張って、行動を取る決心をしたからよ。」
聞きなれた明日香の声が右から聞こえて来た。
「明日香!」
今日子は嬉しくなった。
明日香も昨美も自分自身だが、やはり、明日香に会う方が断然気持ちが良いと今日子は思った。
今日子は淡いピンク色のコートを着ている明日香を見つめた。
「ねぇ、明日香、いつも素敵な洋服着ているけど、私が仕事や他のこともいろいろ頑張ったら、明日香みたいにおしゃれな洋服が着られるのかしら?」
明日香はフフフと微笑むと
「もちろん、そうなんだけど、もっと分かりやすく言うと今日子の意識状態によって着ている洋服の色やデザインは変わってくるとも言えるの」
「…どういうこと?!」
「昨美を思い出してみて。昨美の着ている洋服はどんな色のイメージがある?」
今日子は、いつも暗い洋服を着ている昨美を思い出した。黒くて、少し穴が空いているセーターを着ていたこともあった。
「昨美は…昨美はいつも暗い色ばかり着ているわね…。しかもシャープな黒じゃなくて、カラスみたいに真っ黒で、あんまりきれいな色じゃないグレーを着ている時もある…」
「私の着ているものは、どんなイメージがあるかしら?」
今日子は、まじまじと明日香を見た。
淡いピンク色…だった筈のコートが、もう少し濃いピンクに見えた。
「あれ…?!さっきはそのコート、もっと淡いピンク色に見えていたんだけど…」
「この色かしら?」
そういうと明日香はコートに軽く触れた。その瞬間、コートはさっきの淡いピンク色に戻った。
「え?明日香、マジックできるの?」
フフフ、と明日香は微笑むと
「マジックなんかじゃないわ。何もしていない。今、私のコートの色が変わって見えたのは、今日子の意識が変わったからなの。今日子は作美と会うときはマイナスの状態の時よね?そんな時は出てくる色やデザインも、どちらかというとあまり元気がないイメージの物が多いわ。
私と会うときはその逆、だからこそ美しい色や自分が望んでいる物、求めているデザインのものを着ている場合が多いのよ。今日も街がキラキラして見えているでしょう?」
「うん、そうなの。本当に人や街が何だかいつもより輝いて見える」
「もちろん、今日子が今の状態を自分でキープできるようになったら、間違いなく今の私が着ているような洋服や、身に付けている物を今日子も持つようになるわよ。」
明日香はそう言い残すと、鼻唄を歌いながら消えて行った。
「明日香!」
と言い掛けて、まわりに人の視線を感じてすぐに今日子は下を向いた。
明日香にはもっともっと、沢山聞きたいことがある。でも、とりあえず目の前にあることをやっていこう、と今日子は思った。
それから二週間、今日子は前向きに目標に向かって毎日を過ごした。仕事も今まで以上に力が入り、いつも嫌みばかり言う上司からも珍しく誉められたりした。
大輔には毎日メールを送った。自分が今、取り組んでいること、大輔と釣り合う為に頑張っていること等を、あまり長すぎないメールにして送っていた。
その間、明日香も昨美も今日子の前には現れなかった。

週末、同期の佐藤 千夏の結婚式があった。披露宴に同席した田中ゆきはキョロキョロ周りを見回してる。
「な~んだ。期待して来たけど、会社のメンバーは既婚者と彼女持ちの人ばっかじゃん。千夏もまさか、一回り以上年上の人と結婚するなんてね~。あちら側の参列者は…は~ちょっと違う感じ~」
その落胆ぶりがあまりにも露骨で、今日子は笑いながらも
「ちょっと~、ゆき、聞こえるよ」
と突っついた。
「だってさぁ~、私達が出会える機会なんて、年々減ってくるじゃない?一回一回が勝負だっていうのに。まぁ、今日子はもう彼氏いるから良いけどさぁ」
ゆきは怨めしそうに今日子を見た。チークが少し濃い。気合いをいれてメイクしたのだろう。
今日子が黙っていると
「あれ…?まずいこと言っちゃった…?!彼と別れちゃったの?」
「う~ん、冷却期間ていうか、自分磨きって言ったら聞こえが良いけど、実は…一回別れ話が出て、でももう一度やり直したいから、頑張っている感じかな…」
今日子は正直にゆきに話した。
ゆきは神妙な顔をしながら
「私なんかあんまり付き合ったことないから、よく分かんないけど…、今日子頑張って。最近の今日子はイキイキしていて良い感じだよ!私も応援しているから」
人懐っこい、ゆきの笑顔を見て、今日子は勇気をもらった。
「ありがとう…ゆき」

披露宴が終わり、出口に向かう頃に若い男性が一人ゆきの席に近付いてきた。
「あの~、田中先輩、来てたんですか?全然気付かなかった」
営業の杉山がゆきの顔をのぞきこむように喋りかけてきた。
一年後輩の杉山は見かけはヒョロっとしており、草食男子に見えるが、営業の才能は凄まじいらしく、今日子の部でも、その話が出たことがあった。
「は~、あんた誰だっけ?」
「ひどいな、営業部の杉山ですよ。杉山 徹です。ほら、前に会社の飲み会でアニメの話で盛り上がったじゃないですか!」
「あ~、杉山~。思い出した!あんた私にエヴァンゲリオンのDVD貸してくれる、って言ったくせに、まだ貸してくれてないじゃん!」
「あの~、良かったら今から一杯飲みながら、どうですか?」
ゆきと今から二人二次会をしようと話していた今日子は、ゆきの耳元で
「チャンスかもよ!楽しんで来て」
と言い、引き留めようとするゆきの腕をやんわりと振りほどき、二人にお別れしながら披露宴会場を後にした。

腕時計を見ると、まだ8時過ぎだった。
「まだ8時か~」
携帯を見るとメールが一通入っていた。
(大輔?!)
と思い開いたが、それは大地からだった。
『こんばんは、今日子さん。ご無沙汰していますがお元気ですか?ばあちゃんは相変わらず、昇おじさんと話している、とか言いながら、一人会話をしていますが、元気にしてます。もし良かったらまたばあちゃんに会いに来てもらえませんか…?俺もまた…今日子さんに会いたいです。連絡待ってます。大地』
「大地くん…」
大地からのメールを読みながらも、今日子は大輔のことを考えていた。
「大輔…何してんだろう…全然返信もくれないし…」
今日子は急に人恋しくなり、大輔とよく行っていた代官山のバー行くことにした。全面ガラス張りで、カウンターしかない小さなバーだが、照明が暗く、とても落ち着いた雰囲気の店だった。
披露宴会場からワンメーター、タクシーに乗り、ほどなくしてバーに着いた。
(マスター元気にしているかしら。そうだ、今、ダイエット中だから、この引き出物のお菓子、マスターにプレゼントとしちゃおうかな)
などと思いながら、薄暗いバーに近づくと、見慣れた後ろ姿がそこにはあった。
(大輔…)
視線を隣に移すと少しウェーブがかかった栗毛色の女が大輔の足に手を乗せて親しげに話している。
「大輔…」
大輔は面白いことを言って女を笑わせようとしているのか、身ぶり手振り大袈裟に、一生懸命女に向かって話していた。
今日子はゆっくりとその様子を見ながら後ろ足にその場を立ち去った。
ハイヒールがもどかしく、引き出物も邪魔だった。早くここから立ち去りたい、と思いタクシーを止めようとしたが、空車が通らず、今日子は諦めて歩き出した。
お洒落をしている自分を惨めに感じた。
ハイヒールの踵がどうなっても構わないと思う位、すごい早さで歩いた。道行く人がみな今日子の顔を見て行く。
そんなことはもう、どうでも良かった。15分位鬼のように歩くと、今日子はエンジンが切れたように近くにあったバス停のベンチに腰かけた。
(どうして?どうして?神様はこんなに意地悪ばかりするの?私、ずっと大輔に相応しい女性になろうと頑張って来たのに。プラス思考で頑張って来たのに…)
フラッシュバックのように、さっき見た二人の親しげな後ろ姿が脳裏に出てくる。
「あんた、私の忠告聞かなかったじゃん。それでこの有り様か」
久しぶりに左側から昨美の声が聞こえて来た。
「ざまみろ、とでも思っているんでしょ…」
今日子は力なく言った。
「今日子、あんた、すごい顔。鏡で見てみなよ」
今日子は力なくメイクポーチから鏡を取りだし、自分の顔を見たら、そこはいつのまにか流していた涙で、マスカラが剥げ落ち黒い涙となり、パンダのような顔になっていた。
その顔を見て、今日子は更に惨めな気持ちになり、再び涙が出てきた。
「私は…大輔に釣り合うように頑張って来たのに…大輔はもう、私なんか必要ないんだね…」
「だから前に言ったじゃん。あんた聞く耳持たないし。」
「もう、昨美に何を言われたって構わない…あの人、矢代さんなんでしょ…」
「あんたと行ってたあのバーに、矢代を連れて行くなんて、大した男だね、大輔は。」
今日子は涙を手の甲でぬぐいながら言った。甲にしつこい位にマスカラの黒い跡がついてくる。
バスがゆっくりと今日子の前で止まった。今日子の様子を一瞬見て、運転手はバスの扉を閉め、バスは走り去った。
キーンと耳鳴りがして今日子は耳を押さえた。
左にいる昨美が険しい顔をして、今日子に何か強く言っているが、今日子は耳鳴りのせいで何一つ聞こえなかった。
しばらく今日子を見ていた昨美は、そのまま踵を返し行ってしまった。ぼんやりとその後ろ姿を見つめていた今日子は、昨美の洋服が今まで以上にどす黒い色に見えた。
思考が定まらず、今日子はそのまま15分ほどそのベンチに座っていた。耳鳴りが少しずつ取れてきた。
今日子は鏡を見て、目の回りに残るマスカラの跡を取れる分だけ取った。
取っているうちにまた涙が出てきた。
「私は出来る?必ず出来る?何にも出来ないじゃん。何にも出来てないじゃん」
その時、電話がなった。着信は大地からだった。今日子は話す気になれず、そのまま電話に出ずにいた。
電話が鳴らなくなってから今日子は携帯を再び見ると着信が三件あり、どれも大地からだった。
(大地くん…何の用?)
メールの着信があった。
『今日子さん、度々すみません。ばあちゃんが2時間位前から今日子さんを呼んでくれって何回もいうんで、しつこく電話しちゃってごめんなさい。ばあちゃん、昇おじさんの所にそろそろ自分は行くから、その前に今日子ちゃんに会って話したいことがあるっていうんです。』
今日子はようやく頭を上げて、静子おばあちゃんの顔を思い浮かべた。
「静子おばあちゃん…」